「建築家が好き」って言ってる人が苦手でした。
おそらく建築について基本的な勉強をしたこともないであろうに、「建築家が好き」と公言している人を見ると心がざわついてしまったのです。
10年以上前。私は大学生でした。
その頃の私は格好付けて「建築家が好き」と言っていました。
建築家の英語で書かれた本をオシャレな喫茶店で読んでいました。時にはそれを訳知り顔で女の子に話したりしていました。
アルバイトのプログラミングでも「建造物の設計手法をプログラミングに導入すべきだ」と訳の分からない事を口走ったり、作成したアプリケーションの壁紙を「ファサード」と呼んだり、痛々しい行動を繰り返していました。
ある日母が私の下宿先の本棚を覗いて建築の本を見つけました。そして嬉しそうに「○○さんのこと、好きなの!?」と。
これが悪夢の始まりでした。
母は20年以上キャリアのある設計屋でした。共通の話題が少ない息子と新しい話題が出来たと喜び、色々話そうとしました。
……が、いかんせん私は「ファッション建築家ファン」でしか無かったのです。
建築の基本も知らなければ、設計の歴史も知らない。私が本棚に飾ってある建築家がなぜ市場を席巻し、また市場から去っていったのかも知りません。
「ただ、なんとなくオシャレでかっこいい」だけで好きだった。いや、むしろ「その建築家を好きと言っている自分がかっこいい」だけで好きだったのです。
その時の母のがっかりした顔。
あんながっかりした顔をさせたのはいつ以来でしょう。小学校の保護者面談で「トジコモリンくんは思いやりがありません。勉強はできますが育て方に失敗しています」と言うようなことを言われた時以来でしょうか。
母は情けない私を見て、きっと再び自分の子育てを責めたに違いありません。薄っぺらい奴に育ててしまったなと。
その日以来、「建築家が好き」と言っている人がいると心がざわついてしまって直視することが出来なかったのです。その人達に非は1%も無いのですが、自分の黒歴史を思い出して辛かったのです。
そして今週。忌まわしき建築家の展示会「フランク・ゲーリー展」へ行ってきました。
たまたま仕事をご一緒している素敵な先輩が行くというので付いて行かせて頂いたのです。
正直何も期待せずに行きました。ひょっとしたらその先輩に自分と同様の底の浅さを見たいという、いやらしい気持ちが有ったのかもしれません。
しかし、展示を見て私の心は大きく動いていました。
社会人経験を経て、大規模なプロジェクトを遂行することの難しさを嫌というほど分かっていた私に、彼の仕事は沢山の気付きと発見を与えてくれました。
人と違うことを考えるのは簡単でも、形にし続けるのは難しいということを、直近のプロジェクトでさえ痛感している私に、彼の生き方は尊敬と感動を与えてくれました。
なんということでしょう。底が浅いことを自認しているにも関わらず、またしても「建築家が好き」と公言しなければならない日が来てしまいました。
ちくしょう。こんなことなら行かなければよかったぜ、フランク・ゲーリー展!!